My Life Story
マイ ライフ ストーリー
この空のどこかから地上に降り立って半世紀余り。
青木麻奈 Mana Aoki
Peace Makin’Labo 主宰
Innerlink社認定トランスフォーメーションゲーム上級ファシリテーター
フィンドホーンフラワーエッセンス認定プラクティショナ−
日本におけるフィドホーン財団リソースパーソンの一人
MY LIFE STORY
My Life Story
「どうしたら、私の住む世界は安全になるのか。」
これが物心ついた頃からの私の中にある問いかけ。
幼少期の家庭環境は緊張感の高い父の感情の糸が切れれば、大きな声で怒鳴り、時には暴力にまで発展した苛立ちとやり過ごしながら日々を生きる、というのが家族の苦心で、決して平和とは言えない家庭に育ちました。
そんな環境の中で、この二つの問いかけが自ずと湧き上がってきたのだと思います。
私はどうしたらみんながお互いを許し合える方法ばかり考えていました。
しかし、幼い私の思案も叶わず11歳で両親が離婚。以後、母と共に成人するまで二人三脚の暮らしが続きました。
幸い、何事にも前向きで好奇心おう盛な母のお陰で、母との生活は楽しく、また、精神的・霊的な探求についても早くから影響を受けました。
最終的には両親ともその後良き伴侶に恵まれ、自分の正直に生きる大切さをその背中で見せてもらったと思っています。
社会人になる前に世界を見てみたい
世界には私が想像もしていなかった人々の暮らしや自然界の大きさ、そして果てしない可能性があることを知り、抱えきれない程の体験と共に帰国。
以後3年間は、縁あって仲間とエコツーリズムを主題にした国際NGO立ち上げのPRを担当し、バリ、ネパール、タンザニア、ロンドン、パリ、バルセロナの拠点を回りながら、インフルエンサーたちの賛同書を集めるという、一風変わった「旅」を経験。ただ旅をしていただけでは出会えない、世界の「プロフェッショナル」に出会い、その寛容さを知る時間でした。
燃え尽きて、繭ごもりの時間
自分自身のコミットメントの限界を感じ、その活動から身を引き完全帰国。
移動を重ねる旅はここで一旦終了。
帰国後は、自然食品店を営んでいた母を手伝いながら、燃え尽き症候群による
無力感と向き合う時間を過ごしました。
思えば、この時間は、自分自身の許容量を超えた体験を消化する時間でした。
自分自身の依存的な傾向にも向き合い、実家を離れ、一からの起死回生を計る「旅」が始まりました。
「藝」との出会い
ここでは「藝」について学び、また伝統的な世界の斬新さと創造性に触れる貴重な体験と、「日本」という文化への理解も深まりました。同時にこの時に出会ったフラメンコにその後どっぷりとつかることとなりました。
そして社会人へ
外資系金融情報プロバイダーの日本支社長の秘書となりました。
会社員にはなるまい。というのが20代の私の信条であり、
このときの私は「挫折」を感じていました。
しかし、実際に働き始めてすぐに、
それは浅はかな私のフィルターでしかなかったことに気づきました。
当たり前のことですが、「会社員」という人は存在せず、
そこには一人一人の血の通う人々が働いており、何かすれば「ありがとう」と返ってくる。
その「当たり前」が、私の「挫折感」を払拭したのでした。
私が経験した「企業」での時間は、私に自己受容と自信を育んでくれる場でした。
以後、45歳になるまでの16年間、秘書として勤めさせていただきました。
また、この間に私自身の表現活動であり心の世界の統合の場となるフラメンコに30歳で始め、踊り手になるべく「沼」にハマり40歳の時には幼少期から学んだ書に再会し、甲骨文字を書く古代文字アートに出会い今でもその旅も続いています。
魂のホーム、フィンドホーンと出会う
社会人となってからは、経済の自由を得て再び旅を重ねることが可能になり、
その中で2004年に初めてフィンドホーンを訪れることが叶いました。
そこで体験した一週間は、私がわたし自身を承認し、大きな癒しとともに、
10年間、心の中にしまい込んだ、20代の燃え尽きによる「挫折感」を手放す時間となり、
人生の大きな転換点とを迎えることができました。
その時の体験週間での「再起動体験」が未だ、わたしがフィンドホーンの種を
日本に蒔くためのモチベーションとして生きています。
人生後半の旅の始まり
東日本大震災の年に古い友人である現在の夫と再会し、お互いセカンドハーフを共に生きるパートナーとして、2015年に結婚。現在は国立市にて2人暮らしをしながら、縁あって南房総に田んぼを借り、実験を重ねてお米を育てながら、夫婦の成長と自然界との共同創造の実験中。
まだまだ未知なる世界の道は続く。